1707年に起きた宝永地震は、日本史上でも最大級といわれる巨大地震です。海沿いの地域では津波による大きな被害が出ましたが、奈良には津波の記録はありません。
けれども、奈良が無事だったわけではありませんでした。
『大和国諸記録』や寺院に残る日記には、家屋が倒れたこと、石灯籠が崩れたこと、寺社の建物が損傷したことなどが書き残されています。また、地震のあとも余震が続き、人びとが強い不安のなかで日々を過ごしていた様子もうかがえます。
寺院の日記には、境内に避難してきた人々のことが記されています。建物の被害だけでなく、怪我をした人がいたことを示す記述もあります。そして「施薬」という言葉も見られます。これは薬を分け与えたという意味で、寺院や地域の医師が支援にあたっていた可能性が高いと考えられています。
当時の奈良には、今のような病院制度はありませんでした。医療は町医者や藩医が担っていました。地震のあと、負傷者や体調を崩した人を診るのは、こうした地域の医師たちでした。そして寺院は、心のよりどころであると同時に、避難や支え合いの場にもなっていました。
江戸時代の災害対応は、制度よりも「つながり」によって成り立っていました。寺院と町医者が、それぞれの立場から命を支えた姿が、静かに記録の中に残されています。
宝永地震の奈良の史料は決して多くを語りません。しかし、その行間には、共同体が人を支えた確かな痕跡が感じられます。
史料にみえる具体記述
『大和国諸記録』宝永四年十月条には、「家屋多く傾き、石灯籠崩る」との記述が見られます。また寺院の日記には、余震が続いたこと、人々が境内へ避難したことが記されています。記録は簡潔ですが、その行間から当時の緊張と不安が伝わってきます。
さらに「施薬」という語が確認される史料もあり、薬を分け与えたことが示唆されています。制度化された医療体制が存在しない時代において、寺院と町医者が連携しながら支援にあたっていた可能性は高いと考えられます。
宝永地震 奈良関連 年表
宝永四年十月四日 南海トラフ巨大地震発生。
同年十月以降 余震が継続。寺院日記に被害と避難の記録。
宝永期以降 各地で修復・祈願・供養の動きが確認される。
内陸都市奈良の特徴
奈良は津波被害を受ける沿岸地域とは異なり、大規模な慰霊碑や津波碑が多く残る土地ではありません。しかしその代わりに、寺院の記録や修復記録、講中の祈願など、文字としての痕跡が残されています。
江戸期の奈良では、制度よりも「つながり」が支えでした。寺院は避難所となり、町医者は診療を行い、人々は互いに支え合いました。その姿は大きな石碑ではなく、静かな記録の中に刻まれています。
